会場:ママトコBATONホール
〒861-1344熊本県菊池市七城町蘇崎1310-3
期間:2021年3月1日(月) ~ 3月14日(日)
時間: 10:00 ~ 17:00
入場無料
1984年、医師中村哲さんは長くても6年間の予定でアフガニスタンに向かう。
主にハンセン病対策の医療支援が目的でした。
しかし、1979年に始まりその後10年におよぶ旧ソ連軍のアフガニスタン侵攻がもたらした戦乱の真只中、
大干ばつが襲い国土は砂漠化し、400万人が飢餓に直面します。
「きれいな水と食料があれば病気の90%は治る」ことを実感した中村さんは、
1年間で600本以上の井戸を掘るプロジェクトを開始。
それは、後の数十キロのおよぶ用水路建設のさきがけでした。
用水路は30数キロになり、65万人の民を飢えから救い、農業を復活させたのです。
聴診器をショベルカーのレバーに持ち替え、自ら用水路建設の先頭に立って指導した中村さんの思いと希望は、
次の言葉で表現されています。
「あまりの不平等という不条理に対する復讐であった」(『アフガニスタンの診療所から』)。
また、「…皆が落ち着いて生活できること。そのもとといえば、水だったわけです。
自分がしたことで、あとまで引き継がれていくというのは、おそらく用水路だけで、
そこに根づいて生活する人たちの命綱を握っている。これが希望でしょうね。」
「アフガニスタンというのは、いいことか、悪いことか、
いわゆる近代化に取り残された国で、自分たちの伝統を頑なに守る民族が住んでいたわけですね。
そういうところでは、かえって鮮明に水のありがたさ、自然と人間の共生の仕方といったものが、言葉もいらないぐらい、皆、自然に生きている。」
(『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』澤地久枝氏との対談)
用水路建設は自然との闘いであり、国際政治との闘いでもありました。
1996年の国連による経済制裁。
2001年9月11日発生したニューヨークを中心にした米国本土でのテロを契機に、
テロリストをかくまっているとして米軍によるアフガニスタンへの報復攻撃が始まります。
犠牲者の多くは飢餓に苦しむアフガンの非戦闘員と子供たち。
日本は米軍の後方支援で自衛隊を派遣。
中村さんは国会で「自衛隊派遣は百害あって一利なし」と訴えますが、逆に発言撤回を求められます。
このとき中村さんが選んだのは、「米軍が爆弾を落とすなら、我々は食糧を落とす」の掛け声で始めた食糧支援。
2008年8月、ペシャワール会のメンバー伊藤和也さんが、
タリバーンに拉致され、その後戦闘に巻き込まれ命を落とします。
この時、日本の世論は中村さんが政府の撤収指示に従わなかったとして非難する側にまわりました。
中村さんは日本人スタッフを全員帰国させますが、自分自身はただ一人現地に残りました。
幼い頃、論語を素読し、やがてプロテスタントの洗礼を受けて育った中村さん。
大好きなのは昆虫観察。五人の子供と妻とは深い愛情で結ばれていました。
しかし、愛息を脳神経腫瘍で亡くします。
まだ、10歳の幼さ。息絶えようとする息子さんに添い寝し、
「お前の弔いはわしが命がけでやる。あの世で待っとれ」と声をかけます。
2019年12月4日、その中村さんが、現地のドライバー、護衛の4名と共に殺害されます。
享年73歳。
アフガニスタンに診療所作りで入国して35年。
「自分の身は、針で刺されても飛び上がるけれども、相手の体は槍でついても平気だという感覚、これがなくならないと駄目ですね。」(澤地久枝氏との対談)
中村さんの闘いは終わっていません。